日本人の98%が知らないキリスト教の「色即是空」を紹介

日本人の98%が知らない「キリスト教」の「色即是空」(しきそくぜくう)を「仏教」の「色即是空」との違いから説明いたします。

 

1.「聖書」の何処に「色即是空」が書かれているか

表題の通り英語「聖書」には、「色即是空」との意が表記されている箇所があり、そこは日本語聖書で「すべて空(くう)なり」と訳されております。

そこは旧約聖書の「傳導の書(コヘレトの言葉)1章2節」で、具体的にはこう書かれてあるのです。

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傳道者言く 空の空 空の空なる哉 都て空なりでんどうしゃいわく くうのくう くうのくうなるかな すべてくうなり)(文語訳聖書)

“Vanity of vanities,” says the Preacher; “Vanity of vanities, all is vanity.”(英語聖書:NKJV)

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最後の「all (凡て)is vanity(空しい)」若しくは「matter(物事) is void(空虚)」のフレーズは、「英語聖書」だけでは無く、一般的に「色即是空」(しきそくぜくう)の英訳として広く使われている成句です。

ご存知の通り、「色即是空」は仏教の「般若心経」(はんにゃしんぎょう)に出て来る教えで、今では日本語の「四文字熟語」のひとつとなっております。

ここで言う「色」(しき)とは、「形に表れた万物」の事を指していて、「空」(くう)は「実態が無い事」を意味しております。

そして、その「色」(しき)は即ち「空」(くう)なのだという事になるのですが、それを英語の聖書ではisと言うbe動詞で簡潔に結んで言い切っているのです。

他に英語の聖書では「all」の部分を「everything」(凡てのモノ)で、「vanity」を「meaningless」(意味を持たない)で言い表し(英語聖書:NIV)、それをisで結んで語っているものもありますが、いずれにせよ「世に有るすべては虚しく、意味を持たない」と言っているのです。

「傳導の書」では、この後、世の凡てがどの様に虚無なのかを延々と述べられているのですが、その紹介の前に、日本人に馴染みの深い仏教の「色即是空」の教えを確認して行きましょう。

 

2.「般若心経」の「色即是空」とは

仏教では、「色即是空」の事を「この世の全ての物は、因と縁によって存在している仮の姿であり、その本質は空である」と言っております。

その上で以下の教えを説いているのです。

即ち「人は自己と、自己に所属する凡てのモノに愛着を感じ、それに執着をしている事が常である。その為、それを失う事により憂いを生じ、悲しむ事になる。しかし、何にも愛着する事無く、執着する事のない者にとっては、憂いも悲しみも存在しない。よって物質的現象には実態が無い事を悟って物事に執着しなければ、苦しまず幸せに生きる事ができる」と。

しかし、これだけの教えでは虚無主義に陥いる危険があるので、それを防ぐ為に「空即是色」を説いて、「実体のないモノが一切の現象を形つくるのだ」と教え、合わせて均衡を取って「虚無」に成る事を防いでおります。

ですから「般若心経」では、「色不異空」(色は空と異ならず)、「空不異色」(空は色と異ならず)と唱え、続けて「色即是空」の後に「空即是色」が唱えられるのです。

この教えにはもちろん、物質的肉体の滅びである「死」の恐怖への克服も含まれており、それも執着を捨て去る事で、可能に成ると言っております。

仏教とは、本来「ゴーダマ・シッタルダ(お釈迦様)」が説いた悟りに到る道の事を言い、「悟りを開いた己の心」の事を「仏」(ほとけ)と言っているのです。

その悟りは「自力本願」による修行の末に得られる救いでした。

3、「傳導の書」には「空」についてどのように書かれているか

対してキリスト教は、思いっきり「他力本願」の極みで、凡てが神様任せです。

よって、聖書の言っている「空」には、仏教で言う処の奥深い、壮絶な意味は有りません。

 

ここで、「傳導の書」の続きを見て行きたいと思います。

1章の3節から11節までです。

 

◎日の下に人の勞して爲ところの諸の動作はその身に何の益かあらん(ひのしたに ひとのろうしてなすところの もろもろのはたらきは そのみになにのえきかあらん)

What profit has a man from all his laborIn which he toils under the sun?

 

◎世は去り世は來る 地は永久に長存なり(よはさりよはきたる ちはとこしなえにたもつなり)

One generation passes away, and another generation comes;But the earth abides forever.

 

◎日は出で日は入り またその出し處に喘ぎゆくなり(ひはいでひはいり またそのいでしところにあえぎゆくなり) 

The sun also rises, and the sun goes down,And hastens to the place where it arose.

 

◎風は南に行き又轉りて北にむかひ 旋轉に旋りて行き 風復その旋轉る處にかへる(かぜはみなみにゆきまたまわりてきたにむかいめぐりにめぐりてゆき かぜまたそのめぐるところにかえる)

The wind goes toward the south,And turns around to the north;The wind whirls about continually,And comes again on its circuit.

 

◎河はみな海に流れ入る 海は盈ること無し 河はその出きたれる處に復還りゆくなり(かわはみなうみにながれいる うみはあふるることなし かわはそのいできたれるところにまたかえりゆくなり)

All the rivers run into the sea,Yet the sea is not full;To the place from which the rivers come,There they return again.

◎萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見に飽ことなく 耳は聞に充ること 無し(よろづのものはろうくす ひとこれをいいつくすことあたわず めはみるにあくことなく みみはきくにみつることなし)

All things are full of labor;Man cannot express it.The eye is not satisfied with seeing,Nor the ear filled with hearing.

 

◎ 曩に有し者はまた後にあるべし 曩に成し事はまた後に成べし 日の下には新しき者あら ざるなり(さきにありしものはまたのちにあるべし さきになりしことはまたのちになるべし ひのしたにはあたらしきものあらざるなり)

That which has been is what will be,That which is done is what will be done,And there is nothing new under the sun.

 

◎見よ是は新しき者なりと指て言べき物あるや 其は我等の前にありし世々に旣に久しくありたる者なり(みよこれはあたらしきものなりとさしていうべきものあるや それはわれらのさきにありしよよにすでにひさしくありたるものなり)

Is there anything of which it may be said,”See, this is new”?It has already been in ancient times before us.

 

◎己前のものの事はこれを記憶ることなし 以後のものの事もまた後に出る者これをおぼゆることあらじ(まえのもののことはこれをおぼゆることなし のちのもののこともまたのちにいづるものこれをおぼゆることあらじ)

There is no remembrance of former things,Nor will there be any remembrance of things that are to comeBy those who will come after.

 

この様な凡そ聖書的とは思えない、後ろ向きの事が沢山書かれており、読んでいて「この世の凡ては移ろい易く、虚ろで虚しい事ばかり」という感じです。

でも、実際の世は、確かに聖書に書かれている通りだと思います。

(2章以降も読んでいて、成程と思う事がたくさん書かれております。機会があったら読んでみると面白いと思います。聖書の見方が変わるでしょう)

これを読み、なにやら「諸行無常」(Everything is evanescent)の様なものを感じると言われた方がおりました。

しかし、聖書に「諸行無常」はありませんし、一般の方が平家物語から思う「諸行無常」は、本来のものとちょっと違うと思うのです。

4、「諸行無常」とは

本来「諸行無常」(しょぎょうむじょう)とは、仏教の根本思想の三法印(他に後述する諸法無我、涅槃寂静が有り)のひとつであり、他の二つと合わさり三つそろって「法印」として、他の教えと仏教を区別する為の印(しるし)となり、法(Dharma)ダーマ、即ち真理の印になるものなのです。

せっかくですから、其の三つを簡単に説明して行きます。

先ず、三法印の内の「諸行無常」ですが、これは「この世に存在する一切のものは常に変化し生滅して、永久不変なものなど全くない」と言う事を言っております。

次に「諸法無我」(しょほうむが)とは、(There is nothing which has an ego己に関しても「諸行無常」と同じ無なのだとして、凡てが変化するという事は、自己と云うものには意味が無いのだという事を言っているのです。

しかし、その裏には凡てが孤では無く、凡ては縁によって繋がっているものだという真実があり、しかもその縁によって自らが生かされ、自らも他を生かしめている一部なのだという事を説いているのです。

深いですね。

仏教は、「悟りの境地」を目的とするものなので、物事に必ず裏と表を見るのです。

そして、最後にそれらを通して涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) の悟り(Bodhi)ボディを得よ! という事をいっております。

(enter nirvana:安息の境地に入る)or(enlightenment leads to serenity:(真の)悟りは静けさを呼ぶ)

その為には、先の二法を理解し得てからこそ、真の悟りが得られるものだとしており、即ち「この世の凡ての意味を追求して、あれやこれや独り悩み足掻くのではなく、この世の凡てのものは変転し、事象に表れて来る凡てのものはやがて滅するものの仮の姿なのだという事を理解し、凡てを無意味と感じて心の重荷を消し去り、静かに生きる事こそが平安を呼び、真理(法:Dharma)に到るのだ」と言っているのです。

何やら非常に難しい言い回しをしてしまいましたが、要するに「捨てよ」と言う事です。

「凡てのものは虚しいのだから捨てて、すっきりせよ」という事ですね。

よって、

仏教は自ら真理に目覚める事により得られる「悟り」を究極の境地とします。

So,

Buddhism holds that the ultimate state is one of self- enlightenment attained by awakening to the truth.

それは、あらゆるものが無常であると同時に常住のものと考え、全てのものは実態をもたないのだから、実態のあるものと考える様な執着を捨てる事を終着としているのです。

It is an objective, too, to rid oneself of the tenacious idea that everything is everlasting, although all is transitory, that everything has substance, although all is insubstantial.

 

 

5、「傳導の書」で「色即是空」の結論は何と言っているの

対して、「聖書」では、「持て」と言っているのです。

 

それでは、「傳導の書」で言う処の「色即是空」の結論をご紹介いたします。

それは最終章(12章)に述べられております。

最初の1章2節から、凡ての事を「空の空なり」と否定して行き11章までたっぷり否定した末に何が残るかと言いますと「神」なのです。

「人間は、神に造られたのだから神に立ち返り、神への信仰を持て、それ以外は何をやってもむなしいのだ」という事を言い切っているのです

 

それは、先ず、「汝の少き日に汝の造主を記えよ……(なんじのわかきひになんじのつくりぬしをおぼえよ)(文語訳)Remember now your Creator in the days of your youth,(NKJV)12章1節前半」から始まります。

 

次に「而して塵は本の如くに土にかえり、霊魂はこれを賊けし神にかへるべし(しかしてちりはもとのごとくにつちにかえり、たましいはこれをさづけしかみにかえるべし)(文語訳)Then the dust will return to the earth as it was,And the spirit will return to God who gave it.(NKJV)12章7節)と続きます。

 

そして、数ある世の教え、経典に対してこう言っているのです。

 

◎「智者の言語は棘鞭のごとく會衆の師の釘たる釘のごとくにして 一人の牧者より出し者なり(ちしゃのことばはとげむちのごとく かいしゅうのしのうちたるくぎのごとくにして ひとりのぼくしゃよりいでしものなりき) わが子よ是等より訓誡をうけよ 多く書をつくればはてしなし多く學べば體疲るわがこよこれらよりいましめをうけよ おおくしょをつくればはてしなし おおくまなべばからだつかる(文語訳)The words of the wise are like goads, and the words of scholars are like well-driven nails, given by one Shepherd.

And further, my son, be admonished by these. Of making many books there is no end, and much study is wearisome to the flesh.(NKJV)12章11,12節」

 

◎「事の全體の皈する所を聽べし云く神を畏れその誡命を守れ是は諸の人の本分たり 神は一切の行ならびに一切の隠れたる事を善惡ともに審判たまふなり(ことのぜんたいのきするところをきくべしいわくかみをおそれそのいましめをまもれこれはすべてのひとのほんぶんたり かみはすべてのわざならびにすべてのかくれたることをよしあしともにさばきたまふなり)(文語訳)Let us hear the conclusion of the whole matter:Fear God and keep His commandments,For this is man’s all.

For God will bring every work into judgment,Including every secret thing,Whether good or evil.(NKJV)」12章13,14節

この様に、

キリスト教の言っている「空」(くう)とは、ただ凡てが「虚しい」と言う事なのです。

「神無き世界は虚しい」と言っているだけなのです。

 

ですから、凡ての事に神を見て、神を知り、神を畏れ、神を信じよと言っているのです。

そして、それは「新約聖書」に続き、イエス・キリストを知り、「信仰を持つ」事が、真理の道に入る方法であり、「救いの門」に入る道だと教えております。

 

聖書の言っている事は、非常に単純です。

「イエスを信じて、信仰を持て」これだけの事なのです。

その中には、「死」への克服も含まれております。

「聖書」は、「イエスをキリストと信じる事」により、「救いの門」から「天国に入って来なさい」と言っているのです。

あの分厚い「聖書」の言っている事は、究極これだけです。

詳しくは、近くの教会に行き、ぜひその「真理」をお聞きください。

「イエスをキリストと信じる事」は、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) の悟り(Bodhi)平安への入り口でもあるのです。

★下記のシリーズもご参照下さい、一般的に思われているキリスト教とは違う方向から、キリスト教の姿を紹介しております★

👉 創世記を少し1

👉 日本人の98%が知らない「GOD’s PLAN」No4 (後半の記事は、プライムビデオが終了したので改訂しております)

 

 

※重要説明:私の仏教のお話は、学生時代に受けていた禅宗としての少林寺拳法での法話ノートと教科書を基にしているものです。従って同じ禅宗でもお寺の住職さんがされる法話とはちょっと違うかもしれません。少林寺拳法は、一般に考えられている様な武道では無く、正式には宗教法人金剛禅総本山少林寺と言い、禅宗の修門の行を行う単立寺院です(霊肉一如、行念一致の修練法を演練。拳禅一如、力愛不二の実践)。よってその修練は、少林寺の「聖句」のひとつにある「己こそ己のよるべ、己をおきて誰によるべぞ、良く整えし己こそ、まこと得難きよるべなり」に代表される「自力本願」を第一とし、また、もうひとつの「聖句」にある「自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、浄きも浄かざるも自らのことなり、他者(たのもの)に依りて浄むることを得ず」にある様に「他力本願」をきっぱりと否定して、自己の行為と精進によりのみ「悪因苦果」を避けて「善因楽果」の「因果応報」に到る「自業自得」を鉄則とした修門の行なのです。それにより少林寺拳法「信条」の中の最後にある「我等は、法を治め、心身を錬磨し、同士相親しみ、相援け、相譲り、協力一致して理想郷建設に邁進す」とある様に、死後の救いを第一とするのではなく現生第一の釈尊の教えを修練修行する法でした。ただ、私はこの修行を離れて40年以上になりますので、現在の少林寺拳法で、法話と学科に関してどの程度重要視されて、どのような内容を学ばれているのかは不明です。当時の私は少拳士(二段)という立場で、教わっていた方は、本山で長年修業してきた当時の道院長からでしたので教えは本物です。(勿論、教わってきた教えの中には後世の大乗仏教的なものも混じっておりますし、創始者、宗道臣先生のご教示が主です) そして、私は当時からクリスチャンでしたが、少林寺はそれを否定するものではありませんでした。またクリスチャンとしての私は、当然、今でも少林寺拳法を否定するものではありません。矛盾している様ですが、矛盾していないのです。聖書では少林寺拳法の様な修行を禁止しておりませんし、キリスト教の主によって救われたものが行う「人としての行ない」にも「自由」が許されているのです。「修行をしたければすればよいのです」。それにキリスト教にとっては、とても重要な事なのですが、本来の仏教に偶像崇拝はありません。したがって誰をも拝みません。釈尊は自分を拝むなとはっきり言っております。礼拝するものは、法であり真理(ダーマと呼んでいますが名前ではありません)であり、それこそが唯一の存在と言い切っているものです。法が無ければそこに何も生じません。それがあるからこそ色空因縁因果応報全ての生滅が働くのです。もともと無と言っても無の存在があり、存在があるという事は、真理が存在するのです。そしてそれが有るからこそ法が働くのです。よって、仏教でも根源の真理は最初から有るので、それがなければ法も存在しませんし、因も縁も起こらないのです。無を存在させる真理こそが全ての創造主「有りて在るもの」唯一神です。よって聖書が言っている様に「神無き世界は虚しい」と言う事になるのです。

Good by and Have a nice day.

Hallelujah!